人の心は他者との関係の中でしか捉えられない

自分という人間は、他者との関係性の中でしか存在しない

これが分かると凄く肩の力が抜けるんじゃないかなと思う。現代は「自分というオリジナルの存在がいる」と強烈に思い込まされている様に感じるんですよね。

【人の心は他者との関係の中でしか捉えられない】

人はコミュニケーションをもっぱら「言語という道具」を用いて行います。

でも言語だけがコミュニケーションの手段ではないし、最も優秀な道具でもない。

逆に言語を使う事で「嘘をつく」といった様に、故意に本当に伝えたい事とは違うコミュニケーションを取る事も出来る。

実は、言語を操る事が出来る人間は、意識的・無意識に言葉で嘘をつき続けています。

この嘘と本心が離れていくと、その隙間に”症状“と呼ばれる様なアナログモードの問題が発生するもの。

またコミュニケーションでは、言葉と表情それぞれ別のメッセージを届ける事も頻繁に生じます。

目は口ほどにものを言うと言うが、優しい言葉を発しながら、怒り燃えた目を伏せる向けられると、人はダブルバインド(二重拘束)と呼ばれるものに縛られる様になる。

逃げられない環境の中で、このダブルバインドを受け続けると、人は精神的葛藤状態に追い込まれてしまう。

アメリカの心理学者マレビアンが行った「コミュニケーション時に人が他者から受け取るどんな情報(感情や態度など)で、他者を判断しているか」という実験では、話す言葉のない様による判断はわずかでした。見た目や仕草、表情などの視覚情報は55%、声の質や速さ、テンポ等の聴覚情報が38%で、非言語的なコミュニケーションの方が実は多くのものを伝え合っていたのです。

それに私達は、たとえ顔を合わせたり、会話をしていなくても、ちゃんとコミュニケーションを取っている。例えば、終日、引きこもって寝室から出て来ない人は、その事自体が周辺の人々へのメッセージになっている。

また、その周辺にいる人々は寝室から出て来ない人を「まるで居ないかの様に」扱ったり、「腫れ物にでも触る様に上げ膳据え膳、至れり尽くせりで接したり」と、そのコミュニケーションに対して、何らかの応答をします。

この様に「人」あるいは「人の心」というものは、単体では存在し得ないもの、他者との関係の中でしか捉え様のないもの、と言い切っていいのではないでしょうか。

この様に考えれば、ある人物Aが、他者Bとの関係で生じる心abと、別の他者Cとの間に生じる心acとは、当然違ってくるでしょう。

私達は、この事を前提とした上で、「心abと心acとを統一して見せる工夫」をしています。この工夫が出来る能力を「パーソナリティの統合性」と呼んだりしているのです。

「愛という名のやさしい暴力」斎藤学[精神科医]著より抜粋

この「パーソナリティの統合」が上手く出来ている人は、凄く魅力的ですよね。

これが下手クソな人は、近くに寄りたくないしなあ~(笑)

Follow me!