「脳の限界」と「直感力の養成」

苦労とか努力の意味でもありますよね。

「自分の限界」と思っている所を超えるコツを人生のどこで学べるか。

「スポーツ脳でグングン子どもが伸びる」より抜粋

【脳の限界】

体力の限界には、物理的限界と心理的限界がある。筋力を例に取れば物理的限界とは発揮し得る最大の力であり、心理的限界とは「意識的」に発揮出来る最大の力の事である。

なぜその様な違いがあるかというと、脳が「もう限界だよ」とブレーキを掛けるからで「脳の限界」と言われるのもこれが理由だ。しかし、脳の限界は通常、本来の力の70~80%程度と言われている。

超一流のスポーツ選手では、心理的限界が物理的限界の95%にも達すると言われている。

限界までまだかなり差がある場合には、心理的限界を引き上げるのは難しくない。しかし、限界値に近づくにつれ、トレーニングは効果が上がりにくくなり、ここを超えるかどうかが、一流と二流を分ける壁と言える。

勉強でも心理的限界はある。「もう嫌だ」「難し過ぎて分からない」と諦めてしまう状態がある。しかしここで、さらに上のレベルの物理的限界まで目指さなければ、難関校、一流大学に入学する事は出来ない。そこが勝負の分かれ目である。

ところが、運動部を引退した生徒が入試前に急に成績を上げる事がある。これは現下院言近付いてもスポーツで限界を目指した経験があるので、心理的に余裕がある事も大きな要因だろう。しかも、勉強とは違う分野で物理的限界を目指したという事は、脳が他分野で限界に近い刺激を受けているので耐性が出来、勉強の物理的限界値が高くなっているのだ。

この様に物理的限界を超えるためには、心理的限界を最大限に発揮する事が要求される。

そしてこれが最後に差がつく所でもあるのだ。

スポーツで脳を鍛えていると、この心理的限界に対する耐性が出来、まさしく「火事場の馬鹿力」的な能力、そして脳の限界値を上げる事に繫がるのである。

好きで夢中になれる事でこの「限界を超える」状態に入れたらそれが一番。

でも人間って弱いから、ちょっと壁に当たると諦めたりラクな道に逃げがちなもの。そういう時に怖い師や先輩に怒られたり、逃げられない状況に追い込まれる事で、一人では難しい壁を乗り越えられる事がある。

そういった愛ある厳しさって有難いもの。

自分の容量・器を広げておくと、後の人生がラクになる。

以下は、「直感力」についての部分を読んで。

「動物的本脳や身体感覚を取り戻す」というのが、現代人には本当に必要だと思います。

これが無いから、情報戦で簡単に騙されてしまう。

「あれ、何かおかしくないか?」という直感が働かない。

【直感力の育成】

小脳は、重さがわずか130グラム、脳全体の一割弱くらいの大きさでありながら、脳全体の5割以上の神経細胞が集まっている部分である。そして内耳の平衡感覚や、筋肉・関節などから送られてくる情報を敏速に整理し、素早く身体のバランスを取る役割を担っている。また複雑な運動では、沢山の筋肉を協調させる仕事もしている。

そのため小脳は、運動のための脳とも呼ばれるほどだ。しかも、小脳は大脳と固く連係していて、全て大脳からの指示命令によって働いているのだ。

アルツハイマー病などによって大脳がダメージを受けてしまった場合、小脳が大脳の代役として活動量を増して、精神的な働きや認識や思考といった高度な情報処理を行っていくという。

健康な子供の脳では高度な情報処理は大脳が行っているが、スポーツによって小脳に刺激を与えて、これを活性化していけば、大脳と小脳の連係プレーがよりスムーズになり、別の方面に応用、例えば勉強にも活かせる様になる。

小脳は動物脳とも言われている。動物は人間よりも小脳が発達しているため、絶妙なバランス感覚を持ち合わせていて、猫などがどんな高い所から放り投げられても、必ず体を反転させて着地出来るのが何よりの証拠である。

この様に小脳には動物的な本能を高める機能が備わっている。この能力はある程度訓練すれば人間でも発揮出来る。

それを人は、「直感」と呼んだりしているのだが、スポーツ選手には直感が鋭い人が多い。彼らは、「頭の中に電波が来る」「頭の中がスパークする」といった言葉で表現するが、突然何かが閃くという。

もう少し理論的に言えば、頭の中の論理的な思考や分析ではAと考えているのに、突然パッとBという考えが浮かんで来るという事である。

今やデータ通りにプレーすれば90%は勝利をものに出来ると言われるプロ野球でも、残りの10%は直感が制するという。こうした勝利を呼び込む直感を、ヤクルトの古田敦也捕手は「嗅覚」と呼んでいるが、「データではこの様な配球がベストだが、打者からデータとは違うよという匂いが伝わって来る時がある」と語っていたのが印象的だった。

何よりもデータを大切にしている様に見える古田選手が、「データ社会になり、それに頼り切っていると、動物の本能が眠ってしまう」とも言う。そして、この嗅覚を持てるか持てないかが、一流と二流の分かれ目になると力説していた。

現代の学校教育もどちらかと言えば、データ中心、暗記中心となっている。それは受験や普段のテスト等も同様だ。その様にデータ漬けにされた子供に、動物本来の野生の直感を呼び覚まさせていくのに最適なのがスポーツである。勉強においても、閃きや直感は絶対に必要である事は、エジソンを引き合いに出すまでもなく誰もが頷くところだろう。

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