対人関係のセンス

昨日、知り合いの社会活動をしている仲間達と話していた時の話です。

人の集まりでは必ず起こる「人の分断・分裂」、そしてそういう集まりに必ず入って来る「ちょっと困った人」の話をしていました。言ってる内容は正しかったりするのに、「人との繋がりを作れなかったり、ブチ壊してしまう人」っていますよね。

僕も、障害者福祉や政治活動の団体での活動をしている時にそういう人を沢山見てきて、そういう困った人が人の繋がりを壊してしまって、下手をすると団体の絆までメチャクチャに壊していくのを目の当たりにしてきました。

とにかく自分が関わっている活動では絶対にそうはなりたくないな、という想いが強くて、常にそこは意識しているので、昨日からずっとそんな事を考えていました。

そしたら、今朝、それにピッタリの解答の様な記事を読みました。

Facebookでフォローしている 篠原 信 | Facebookという方の記事です。

「センス」っていうと、オシャレとかスポーツや音楽みたいですが、人間関係における間合いみたいなものも確かにセンスと言えるものなんでしょうね。そして、僕はトレーナーとして、この「”センス”というものは後天的に作れる」という事を確信して指導しているので、凄く納得いきました。興味がある人はぜひ、読んでみて下さい。また、人間関係が苦手やなという人、人の中に入ると緊張してしまう人、家庭がギスギスしてしまうっていう人にもおススメやと思います

ちょっと長いのですが、とてもいい文章なので以下に転載してみますね。

篠原 信

昨晩のウェブ飲み会のテーマは「センス」。センスがいい、悪いと言うけれど、そのセンスって何?と言うのを話し合った。普段何気なく使う言葉なのに、いざ言語化しようと思うとなかなか興味深い。私は元々、自他共に認めるセンスのない人だった。スポーツもセンスがない。芸術もセンスがない。

勉強もできず、センスがない。何もかもにおいてセンスがない、と言われていたし、私自身も諦めていた。しかし今にして思えば、「センスがない」状態とは、何もかもを意識でがんじがらめにコントロールしようとしてるとき、という気がする。

「であるべきである」、「ねばならない」にとらわれ、意識ですべてコントロールしようとするとき、無意識の声は聞こえなくなる。無視してしまう。柔軟性を失い、硬直してしまう。その融通のきかなさがいかにも「センスがない」ことになっていたらしい。

センスがいい、評するところをみると、センスとは、他人の評価を伴うらしい。相手の存在に頓着せず突っ走るのは、センスがいいと言うより一人の世界に没入した感が強くなり、いわゆるオタク感が出てくるみたい。芸術作品などはオタクだからこそ出るものもあるのだけど、「センスがいい」はなんか違う。

たとえば服装のセンスがいい、という場合は、ただいいものを着てるというより、周りの人への配慮、優しさを感じさせる時ではないか。相手を見下す感、一人酔ってる感じの時はキザとか言われる。センスは、どうやら他者への配慮、優しさが伴う時に感じられるものらしい。

では、他者によく思われようとするばかりだとどうなるか。それはセンスがいいというより、優等生、「よい子」感が強くなる。いわゆるアダルトチルドレンのように、自分を失い、他人にどう見えるかばかりを気にする場合、「センスがいい」から外れていくらしい。

自分の「好き」を手放さず、それを突き詰めつつ、それが他人にイヤな思いも与えないよう配慮する。それを感じさせる時、「センスがいい」は立ち現れるらしい。

それに近い話で、ブランド物の服を着てるのにオタク感が出るのはなぜだろう?という考察を前に読んだことがある。他の人が着たら間違いなくセンスがいい、になるはずなのに、オタクがブランド物を着てる、と感じさせるのはなぜなのか?を考察していたのだけど、その考察では「筋肉の硬直」を指摘していた。肩に力が入り、人と話してるのに緊張しないようにしよう、と緊張してる。その不自然な緊張がオタク感だ、と。

他者の目線を気にはしてるのだけど、相手への配慮というよりは恐れ、になるとき、それは筋肉の緊張となり、相手に伝わるらしい。とても上質な服を着ていても、センスを感じさせなくなるのは、「恐れ」のせいかもしれない。

前に不潔感について言語化を試みたことがある。汚れた格好をしていても不潔感を与えない人、きちんと洗濯してるのに不潔感を与える人がいる。その違いは何だろう?と考えたとき、不潔感を与えない人は、他人への配慮を感じさせている。「こんな格好で悪いね」と、相手に不快感を与えない配慮を感じる。

他方、不潔感を与える人は傍若無人感というか、自分が心地よいなら周囲がどう感じようと知ったことか感が出てるとき、ある意味不安、恐怖を感じ、それが不潔感として現れるらしい。言葉になっていない、身体の筋肉の力の入り具合や身振り手振り、視線の送り方などから、私たちは敏感に察知するらしい。

センスがいい、とは、自分の「好き」を手放さず、突き詰めると同時に、顔を合わせる人への配慮、優しさを感じさせる時に立ち現れるらしい。私がことごとくセンスなかったのは、意識ですべてを制御しようとして、無意識の声が聞こえなくなり、相手のシグナルを感じ取ることもできなくなったからかも。私は「ねばならない」、「であるべきである」という呪いをたくさん抱え、それに従うために無意識の声に耳を傾けず、必死になっていた。その必死感が「センスがない」ことになっていたらしい。

呪いを時間かけて解除し、無意識の声を聞けるようになって、以前は見えなかったものが見えるようになった。「ねばならない」、「であるべきである」に従うと、いわゆるよい子、優等生になる。それも他者からの評価を受ける一形態だけど、センスは失う。自分を失った行儀のよいアダルトチルドレンは、センスがいい、から外れるらしい。

自分の好きを追究し、他者への優しさ、配慮もできる。そんな自由で優しさもある形のとき、「センスがいい」は立

ち現れるのかもしれない。

以上転載

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センスがいい、とは、自分の「好き」を手放さず、突き詰めると同時に、顔を合わせる人への配慮、優しさを感じさせる時に立ち現れるらしい。私がことごとくセンスなかったのは、意識ですべてを制御しようとして、無意識の声が聞こえなくなり、相手のシグナルを感じ取ることもできなくなったからかも。

この部分はほんま秀逸やな~と思います。感動しました。

私は「ねばならない」、「であるべきである」という呪いをたくさん抱え、それに従うために無意識の声に耳を傾けず、必死になっていた。その必死感が「センスがない」ことになっていたらしい。呪いを時間かけて解除し、無意識の声を聞けるようになって、以前は見えなかったものが見えるようになった。
「ねばならない」、「であるべきである」に従うと、いわゆるよい子、優等生になる。それも他者からの評価を受ける一形態だけど、センスは失う。自分を失った行儀のよいアダルトチルドレンは、センスがいい、から外れるらしい

「have to」は人をがんじがらめにして緊張させ、「want to」は人をの魂を解放させるのだと思いながら、僕は常々トレーニングの指導をしているのですが、人が「心の底=魂レベル」で望んでいる事はしんどいことであっても、「快」の方向へ向かっているから幸せになるし、「魂は望んでいないのに、社会的に、あるいは人の目を意識してやっている」事は、たとえそれが正しい事であってもその人は「不快」を感じているので不幸にしている様に感じます。

とはいっても、言葉としては「やらねばならない」を使っていても、その人が「心からやりたい」事であれば何の問題もないので、言葉そのものはあんまり関係ないんですけどね。結局はそこに籠る「言霊」の問題なんやろうと思います。

ブランド物の服を着てるのにオタク感が出るのはなぜだろう?という考察を前に読んだことがある。他の人が着たら間違いなくセンスがいい、になるはずなのに、オタクがブランド物を着てる、と感じさせるのはなぜなのか?を考察していたのだけど、その考察では「筋肉の硬直」を指摘していた。肩に力が入り、人と話してるのに緊張しないようにしよう、と緊張してる。その不自然な緊張がオタク感だ、と。

「緊張」。これ、Oリングテストに通じるものがありますね。自分に合っていない物を身に付けると、緊張が走る。その人には何を持っているのかを教えずに、色々な物を持たせて、その際に「筋肉に出る緊張」でモノや薬の「合う・合わん」を判断したりする方法ですが、自分の顕在意識走っていなくても、体と潜在意識はそれをよく分かっていて、自分に合ったものを判断している。

緊張によって、それを教えているというもの。

そして、それは周りの人間に自動的に伝わり、相手はその伝わってきたもので目の前の相手を判断している。

自分の緊張は、相手に対して「僕はあなたとは合わない。あなたと居るとリラックス出来ない。嫌い、あるいは苦手」といった事を潜在意識下で伝えてしまっているって事ですよね。これって怖いな~と思います。

「不潔感を与える人は傍若無人感」がある。

ここも凄くなる程~と思いました。

「傍若無人感」というのは、「自分ルールをどこでも通す」というものでしょうね。人間関係が上手くいかない人って、どこにいっても自分ルールを通そうとする。それは傍若無人タイプだけではなく、大人しくなってしまう人も同じ。自分ルールを外では出せないから、大人しくなってしまうだけで、それが通る所ではいつもそれを通しているから、他所へ行った時にそこのルールに対応出来ないだけ。

「郷に入りては郷に従え」が出来ない。

ボクサーが総合格闘技に試合に出るには、蹴りや寝技に対応する必要がある。サッカーやってた人がバスケットをするなら、まずルールを覚えて対応する必要がある。ルールが違うのだから。そんな感じやと思うんですけど、体を使った事なら誰でも分かるけど、なぜか対人関係ではひとはそれをやらないで、自分ルールを押し通そうとしてしまう。嫌われるだけやのに・・・。

そして、一見傍若無人感がありそうなのに、嫌がられない人、なぜか許される人っていますよね。小汚い恰好をしていても、そんなに感じさせない人。逆に良い服装やのに、イヤミしか感じさせない人も。

僕は好きな役者さんなんですけど、赤井英和さんとか、ゆるんだジャージで無精ひげといった小汚い感じの恰好をしていても、あんまり不潔感を感じさせない人って気がします。「好き勝手に喋っている様に見えるけど、実は周囲への配慮がきちんと効いている」というのが、周りの人に感じられるからなんじゃないかなと思います。昔、島田紳助さんとの対談で試合の後、脳内出血で倒れて頭蓋骨を開いた状態で過ごしていた入院生活の話やそこから周囲に支えられて今度は俳優として社会復帰していく過程を聞いて感動したのを覚えているのですが、そういう中で周囲の人への気配りとかを身に付けていかはったんでしょうね。

僕が同性やから、ってうのと、ボクシングをやってという仲間意識もあって贔屓目に見ている部分もあるかもしれませんが、でも絶対に女性にもモテますよね。この例えを呼んだ時にパッと頭に浮かんだのが赤井さんなんですよね~(笑)

あ、鶴瓶さんなんかもそんな感じしますね。

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