「自分らしさ」とは?

「自分らしさ」とは、自分なりの物語を持つ、作っていく、という事なんでしょうね。

陸上の為末さんのFacebook記事を読んで考えました。

為末 大


「私らしくありたい」
「私たちらしくありたい」
というのは多くの人の強い欲求ですが、考えてみると私たちは「私」をどのように定義しているでしょうか。
サミュエルハンチントンは「文明の衝突」の中で、「果たして他者と比較せずして自らを定義できるのか」という問いを投げかけています。無人島で育ち誰とも会ったことのない人間は自らの特徴を語ることが難しいでしょう。「背が低い」「積極的」「日本人らしい」という特徴は比較がなければ成立しません。

「私らしくありたい」と願う時、私たちは「唯一無二の私」を志向します。もちろん何もしなくても「あなたは唯一無二である」という理屈は成り立ちます。厳密に身体的特徴や、遺伝子情報や、育った環境や経験を追求していけば一人として同じ人間はいません。しかし、そう説明されても納得ができないことがあります。「確かにそうかもしれないが、そうであるかどうかではここでは重要ではなく、私はそう感じ信じたいのだ」、と。

皆が全く同じであれば個性など存在しません。故に人間同士の「らしさ」の追求は、細部の差異に注目することになります。一歩引いてみれば人類は極めて同質的な生物です。ほとんど同じような社会を構築し、同じようなコミュニケーションを取り、同じようなものを食べています。少しの違いがどう見えるかは距離の取り方だけです。引いてみれば生物という括りで十分ですが、それでは私たちの心は納得しません。だから「らしさ」を追求する時、どうしても小さな差異に着目せざるを得ません。

一方で人間は自分一人ではいられないという性質を持っています。自分らしくいたいと願いながら、何かと一体になったと感じたい。インディビジュアルな個人でいながら、大きなもの一部でいたい。そう願う厄介な性質があります。私と同時に「私たち」も求めるのが人間です。

集団で「私たちらしさ」を追求する時、身体的な特徴など見た目での「私たち」の括り方は現代では不適切です。では、何を拠り所にするのか。それは集団で共有する「物語」なのだと思います。国家とはまさにこの「物語」を共有した集団だと言えます。ゴーギャンの言う「我々はどこからきたのか。我々は何者か。我々はどこへいくのか」のニーズに応えようとするのが国家なのだと思います。

では、なぜ人間はただ生きることができないのでしょうか。人間が自分を生きていくということは、生命体が維持されているということだけでは足りなくて、常に自分という存在を統合し続ける何かが必要なのだと思います。その統合するためのロジックが物語であり、自分らしさであり、個性と呼んでいるものです。そのようなもので括り続けるからこそ「私」を一貫しているように感じられるのではないでしょうか。だからこそ「物語」の危機は、自分という存在の危機かのように人は抵抗するのだと思います。

自由でありたいとあらゆる束縛から解き放たれ、自由奔放に飛び回っているけれども、実際のところ自分が遊び回れる範囲を決めるその地面は「自分らしさ」なのかもしません。

最近のビジネスでは、「ストーリー」を持つ重要性が語られますが、それも他との差別化ですし、「みんなと一緒でいたい」「同じがいい、それが安心」という部分と「他者とは違う自分になりたい」「オリジナルの自分で在りたい」という相反する欲求を如何に自分の内側で統合するか?

これが上手く出来ている人は、自然な魅力が溢れる人になるのだろうと思います。そこに居るだけで、黙っていても魅力的な人に憧れるし、なりたいもんやなあ~と思います。僕の中では河島英五さんの「時代おくれ」の歌詞みたいな人なんですけど。

有名な人で具体例を挙げると、河島英五さん、高倉健さん、サッカーの三浦知良さん。イチローさんとかいた感じでしょうか。

黙っていても、その存在感だけでカッコええ人っていますよね。

この写真は、竹田城にある「高倉健さんのイス」。

映画撮影の時、健さんはここからの眺めが好きで、いつも撮影の合間にここに座って景色を眺めておられたそう。

僕も座らせて貰いました。健さんの見た景色を、同じ様に眺められて、嬉しかったですね~。

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