人は導かれている

人間は我が強くてワガママな生き物。

「本当の自分=真我」が目指す方向とは違う方向へと、この欲にまみれた世界では常に「誰か」の都合によってどんどん誘導されてしまう。

何となく興味がある、魂が惹かれるなと感じる事や我を忘れて夢中になれる事よりも、それをやれば確実に他者や世間から承認・評価される事や金銭的・物理的に得をする事、またそういう立場に立つ事を選んでしまう。

それは自分の本心にウソをついている事やし、自分の魂を虐待している事になるけれど、心が歪んでいると、それに全く気付けない。

自分の魂が欲している事に向かわないと、魂やその上部にいる神様的な存在は、それが間違っている事に気付かせるための出来事を起こしてくれる。

それは人によって、状況によって違うけれど、素晴らしい人や出来事との出会いの場合もあれば、一見すると不幸に見える出来事であったり、痛い目に遭う出来事であったりもする。

僕自身も試合で酷いケガをしたり、事故に遭ったり、色々あったけれど、そこでちゃんと自分の魂と会話をすれば、気付きが得られる。

大ケガや事故など、色んな痛い目に遭って気付いた事って、その時は凄く嫌で辛かったけど、今になってみれば本当に感謝出来る。逆に、あの体験が無かったら、どれだけ増長して、生意気なままやったんやろうと思うとゾッとしますね。

素敵な出会いとは違って、不幸や病気や事故といった嫌な出来事の場合は、一瞬我が身の不幸を呪いたくなるし、恨みたくなるけれど、そうじゃない。いつまでもそれをしていると、気付きが得られず、また次の不幸(に見えるもの)を呼んでしまう。

その「一見、不幸に見えるもの」は自分の魂、あるいは神様が、自分の人生の軌道修正をさせるために、与えてくれた素晴らしい贈り物。

言い方を変えれば、自分の行いがマズかったり、悪かったりするから与えられた罰とも言えるけれど、それは自分の受け止め方次第であって、ギフトだと思えばいいだけ。というより、そう思うしかない。

「お前、生き方間違ってるぞ。性格が歪んでるぞ」と教えてくれている。心身の不調・病気・事故・不幸は、このままでは生き方や性格を変える気がなさそうやから、それになかなか気付かないから、仕方なく痛い目に遭って目が覚める様に導いてくれているだけ。

自分自身を振り返っても、「これでも、気付かんかったら、お前次はもっと痛い目に遭わすぞ!」っていう感じやったんやろうなと思います。

「お前の役、他の誰かにまわすぞ!クビにするぞ!」って。

生まれ変わりの仕組みとか、あの世のシステムとかを学ぶと、普通にこういう事が書いてある。

信じなくてもいいから、学校とかで子供のうちからこういう事をおとぎ話的にでも、教えておけば、人生に対する見方が凄く変わると思います。現世的な、「損得だけ」ではない価値観を与えてあげないと、今の教育やメディアの情報だけでは、人間の心は歪んでしまうし、「自分の魂の声を聴く、魂を喜ばせる」という感覚は生まれないと思うんですよね。

大いなる存在を身近に感じられる、彼らの導く声が聴こえる謙虚さを持っていたいなと思います。

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