【醜い自分を見つめる】

凄く考えさせられる、素晴らしい記事を読んだので紹介したいと思います。

人を差別してしまう、そんな自分を見つめられるか否か?

自分の中の差別的な感情に自己嫌悪する55歳接客業の女性に、“差別はなくならない”ことを前提に鴻上尚史が勧めた心のもちかたとは? (msn.com)

人間である以上、エゴの塊であって、誰にでもこういう一面はあるんですよね。

そんな目をそらしたくなる自分の醜さ、弱さ、狡猾さから、逃げずに見つめようと決意するか、見ないで「そんなものは自分にはない」事にしてしまう、そうやっていい人の振りをするか?

人間には、その二種類がいるのという事だと思う。

その最初は少しであった差が、長い人生ではいずれ大きくなってくるだけであって、そこに自分が気付いた時が自分を修正していくチャンスなんでしょうね。

「内面」を問い詰め、確認を求め続けることは、かえって、分断と分裂の原因になる。

 だから、「内面」を問題にするのではなく、「行動」を問題にするようにシフトする必要がある。

この文章は秀逸ですね。

本当にその通りだと思います。

全ての人の内面・真意までは、分かり様がないし、コントロールもしようがない。だから、外に出る表情や立ち居振る舞い、といったものは自分である程度、抑えるコントロールの技術がいるのだと思う。

むかしはそれを「躾」として幼い内に身に付けておく事を重要視していたんやろうなと思います。

まとまる組織と まとまらない組織って、この違いが大きい気がします。

他者の「心の中を支配しようとする」、「内面からの絶対的な忠誠を誓わせようとする」と、人の心は離れ、組織は崩壊するのだと思います。

以下、転載です。

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自分の中の差別的な感情に自己嫌悪する55歳接客業の女性に、“差別はなくならない”ことを前提に鴻上尚史が勧めた心のもちかたとは?

2022/10/11 16:00

 愛想が良く接客業に向いていると自負していたが、自身の差別的感情に気づいたと自己嫌悪する55歳女性。この感情をどう捉えたらいいかと悩む相談者に、鴻上尚史が勧める「リア王の長女と次女のように語る」極意とは?

【相談160】自分の中の差別意識に自己嫌悪になりました(55歳 女性 トロン)

 はじめまして。現在喫茶店でアルバイトとして働いています。場所がら高齢の方や女性が多いお店です。

 私は外見上とても愛想が良く、自分でも接客業に向いていると思います。時々、多少の知的障害をお持ちであろう女性のお客様が来店されます。そのお客様に対して店長はそれとなく嫌悪感を表しますが、私は他のお客様と変わらない接客をしていると自負がありました。しかし、先日そのお客様と同じメニューを同時に注文された別のお客様がいて、私は見た目の悪い方のメニューをその知的障害(であろう)の方に出しました。彼女はどうせ分からないだろう、という思いがあったからです。

 一見するとあたかも良い人のフリをしながら、心の中では差別的な感情を持っている自分がとても嫌になりました。

店長のようにはっきり態度で表す方が良いのではないかと自己嫌悪になります。

 心の中にずるい部分を持っているのに、あたかも良い人のふりをする自分がとても嫌です。そしてそんな自分を良い人だと慕ってくる知人に申し訳ない気持ちになります。

 考えすぎですか?

 職業や地位で差別する人が嫌いですが、私も同じだな、と感じてとても落ち込みました。でも、平等に接したいと思う気持ちも本当です。

 どう捉えたら良いですか?

【鴻上さんの答え】

 トロンさん。僕はトロンさんは、とても真面目な人だと思います。それは、トロンさんが自分の内なる差別意識をちゃんと見つめているからです。

 見つめて、これではいけないと思いながら、でも、どうしたらいいかと戸惑っている。「心の中にずるい部分を持っているのに、あたかも良い人のふりをする自分がとても嫌です」という言葉は、とても誠実な態度だと思います。

 トロンさん。最近、僕が「差別する心」についてどう思っているか書きますね。

 すでに別のところで発表しているので、読んだことがある人もいると思いますが、あらためてまとめます。

 トロンさん。いきなり大胆なことを言えば、僕は心の中から差別意識を100%なくすのは、不可能だと思っています。

 例えば、民族や生まれで差別してない人でも、学歴や家柄、能力で人を差別するかもしれません。学歴や家柄、能力で差別してないと断言できる人でも、容姿や体重・身長で差別するかもしれません。

 つまり、誠実に自分の心の中を見つめれば、「私は100%差別する心はない」と断言できる人は、ほとんどいないんじゃないかと僕は思っているのです。

 鈍感な人は別ですよ。そうではなくて、トロンさんのように、自分自身を誠実に見つめたら、ほんの数%か、さらに0.数%の「差別する気持ち」を見つけるんじゃないかと思っているのです。

 でね、だからしょうがないと言っているのではなくて、だからこそ、「心の中で思っていること」と「態度や発言に表すこと」をちゃんと区別しようと思っているのです。

 どうしてこんなことを言っているのかというとね、アメリカの「チャリティー文化」に接していて、はたと気づいたことがあったのです。

 アメリカは、ハリケーン被害とか災害のたびに、有名人や資産家が寄付をするじゃないですか。で、それに対してアメリカのマスコミも人々も素晴らしいと称賛するじゃないですか。

 でも、日本だと、例えば、東日本大震災の時に芸能人や有名人が寄付すると、わりとすぐにネットで「売名行為」とか「偽善」なんて言われたりするわけです。

 それは、私達日本人は、まず心の中を問題にする傾向があるからだと思います。

「ある人に対してどういう行動を取るか」ということと同じか、それ以上に「ある人のことをどう思っているか」が私達日本人にとっては問題なんだと思います。だからこそ、その裏返しで、私達は、「絆」とか「心をひとつに」と言いたがるんでしょう。テレビ番組を見ていると、あらゆるスポーツやコンテストの企画で、この言葉がくどいぐらい繰り返されますからね。この言葉が一回も出ないまま、「勝つ」とか「なし遂げた」という番組はないんじゃないかと思います。

 アメリカは「内面」ではなく、「行動」を問題にします。それは、僕の想像ですが、「内面」を問題にしていては、まとまるものもまとまらないからだと思います。

 日本とは比べ物にならないぐらいさまざまな人種とさまざまな価値に溢れるアメリカでは、「チームのことをどう思っているか」を問い詰めるのではなく、「勝つためにチームに何をしたか」を判断の基準にすることを選んだのだと思います。というか、それしか前に進む方法がなかったともいえます。

 日本人は今まで、「みんな同じ内面を持っているはずだ」という前提が強かったのでしょう。だから、「行動」ではなく「内面」を問題にできたのです。

 大晦日の紅白歌合戦は、1963年の81.4%という視聴率をトップに長い間、70%台を維持しました。この時代は「内面」を問題にしても、お互いはそれほど違っていなかったのだと思います。みんな同じものを見て、同じ考えをして、同じ感覚である、とみんな信じていたのです(本当は違っている人もいたんですけどね)。

 それが、今は、視聴率は30%台前半になり、テレビの別の番組を見る人が増え、さらにテレビではなくネットの動画を見る人が増え、と「内面」は多様化してきました(長く語りたくないので、少々乱暴に紅白歌合戦で多様化を代表して説明しています。ご了承ください)。

 現実は変わってきているのに、「内面」を問題にするという今までの思考習慣がずっと残っているのだと思います。そして、それは、あちこちで軋み始めていて、だからこそ、「内面」より「行動」を問題にした方がいいと僕は思っているのです。

 トロンさん。長く説明してきましたが、僕の言いたいことを分かってくれたでしょうか?

「心の中では差別的な感情を持っている」ことと、「見た目の悪い方をその知的障害(であろう)の方に出し」たことは、まったく違うと、僕は考えているということです。

 前者は、内面であり、後者は行動です(もちろん、店長の「それとなく嫌悪感を表」すことも行動です)。

「同時に注文された」と書いていますが、0.1秒の誤差もないぐらい同時ということはないんじゃないでしょうか。だとすれば、そこは注文の原則として、先に注文された方に、(0.1秒でも先に)上がってきた品物を運べばいいんじゃないかと思います。

 この話をすると、「鴻上は『面従腹背』を勧めているのか?」とか「腹黒くていいって開き直ってるの?」と言う人がいるのですが、もちろん、そんなことはありません。

 僕が提案しているのは、「実践的な生き方の知恵」だと思っています。

「内面」は目に見えません。目に見えないものを問題にすると、「声が大きい方」とか「決意を振り回す方」が勝つことになります。別の言い方をすれば、「言ったもん勝ち」の世界です。

 リア王の長女と次女のように、とにかく語ればいいのです。三女のように、言葉に誠実であろうとすると、「内面」はとても弱いものに見えるのです。

 アジア・太平洋戦争の時の「銃後の守りの決意」も同じでしょう。大きな声で何度も繰り返し叫ぶことが、「内面」を表すことだと受け止められたのです。

 これからますます、望むと望まざるとにかかわらず多様化していく私達日本人に対して、「内面」を問い詰め、確認を求め続けることは、かえって、分断と分裂の原因になると僕は思っているのです。

 だから、「内面」を問題にするのではなく、「行動」を問題にするようにシフトする必要があると思っているのです。

 アメリカと書きましたが、西洋文化はこの方向にシフトしていると僕は思います。もちろん、シフトせざるをえないということです。

 いちいち相手をつかまえて、「内面はどうなの? 本当は好き? 嫌い? 差別している?」と問い掛けることは、分断と不寛容しか生まないと分かったからこそ、「あなたの行動や言葉を判断する」に変えたのです。それは、賢く生き延びるために選んだ知恵とも言えます。

 この考え方は、ビジネスシーンでバリバリやられている方には、受け入れられやすいです。お互いがお互いのことを嫌いなんだけど、ビジネスとしては手を組んだ方が大きな利益が出る時に、それぞれの「内面」を問題にしている場合じゃないと、踏ん切るからだと思います(もちろん、お互いがお互いを尊敬して、認め合っている関係が最高です。でも、そうでない時に、「じゃあ、やめます」と言えない場合も多いからです)。

 それにね、トロンさん。「内面」を問題にしていると、トロンさんの相談のように、真面目な人ほどどんどん自分を嫌いになってしまうでしょう。「とても落ち込」むでしょう。

 でも、「内面」じゃなくて、「行動」が問題なんだと考えれば、気持ちが楽になっていくと思うのです。自分を責め続ければ、やがて「私をこんな気持ちにさせる人達とは接したくない。どうしてあんな人達がいるんだろう」とまで思うかもしれません。

 でも、とりあえず、態度にも言葉にも出してない状態ならいいんだと思えれば、冷静に受け止められるようになるでしょう。そして、「どうして、こんな感情が私に起こるんだろう」「この感情はなんだろう」と見つめる余裕が生まれると思うのです。

 トロンさん。どうですか? 考えすぎず、自分を嫌いにならず、「内面」と「行動」を区別する生き方を僕はお勧めします。

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鴻上さん、特攻隊に関する考察を書かれた本を読んだ時に、この人凄いなと思いました。それまでは時々、テレビで見掛けるちょっと面白い演出家っていうイメージしかなかったんですよね。

人の内面の葛藤を、これだけ深く、そして他者に伝わる様に表現出来るって、すごい能力であり、深い人間性を持っている方なのだと思う。何となく、自分の中では理解が出来ていても、これだけ伝わるように書けるって、リア輝度が相当深くないと出来ませんよね。

伝える、伝わるって本当に難しいけど、人が人生を生きて行くって人の群れの中を泳いでいく事やから、そこからは逃げられない。もっと伝える力を磨いていきたいないと思わされました。

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