神の子たる人間に病気はない

自然治癒力と心との関係。

医学でもこれはよく言われるところではありますが、それについて分かりやすく書かれた文章を紹介したいと思います。

以下、生長の家創始者である谷口雅春氏の言葉を抜粋。

神の子たる人間に病気は本来無いのであるから、
治すも治さぬもない、「本来治っている」のであります。

あなたが病気だというなら、それはあなたの「信念」に間違った所がある。その間違った信念がちょうど活動写真の様に影を映して、肉体に病的状態を表しているのであります。

肉体が「念(こころ)の影」だという事が分かれば、喀血しても何も慌てる事はない。

「心」が映画技師で、喀血と題する映画を、肉体というスクリーンに映し出しているのだから、止血させるのには、やはり「心」という映画技師を雇って来るほかはない。

大いに体に変調のある時にこそ、「心」を落ち着かせて、人間の本体が無限に完全な調節能力を持った生命であるという事実を「心」に思い描くべき時なのであります。

こうすれば喀血でも、その他の変調でも、適当に調節されて来るのです。

といって、一所懸命 心を落ち着け精神を統一しようと焦ったり力んだりする必要はないのであります。
我々の生命というものは、焦ったり力んだりしなければ、調節が完全に出来ない様なそんな不完全なものではない。我々の生命は「神の子」であるから、そんなに不調和には出来ていない。

この真理が心の底に「信念」にさえなっておれば、その「信念の影」として肉体が調和した完全な調節したものとならねばならぬはずであります。

我々が焦ったり力んだりするのは、まだ自分の「生命」が神の「分け生命(いのち)」であって、「”神そのもの”の如くに完全である」という真理を知らないからであります。

焦る事も力む事も何もいらない、肉体は観念的存在(こころのかげ)であるから、心が正しき真理を知って落ち着いていると、肉体は何の感じもない。
「影」に感じがないのは当然の事だからであります。

だから、肉体はどこに胃があるか、心臓があるか、肺臓があるか、感じがない時に一等健康なのであります。

神想観でも坐禅でも鎮魂でもすると、その深い境地に入れば肉体があるか無いか分からなくなる、これが本来の面目なのであります。

生命は全体として調和した渾一体(ひとつ)でありますから、「生命の実相」を自覚したならば、肉体は渾然とした「一つ」とし感じられるのが当然で、「ここに肺臓がある」とか「ここに胃がある」「ここに心臓がある」とか個々別々にその存在が感じられる時は、生命の渾然とした統一感がーー「真理の自覚」が心に失われた時で、真理を心に自覚し、自己生命の完全な統一感が得られれば、どこに胃があるとか、心臓があるとかいう「統一自覚の分裂」が消えて、肉体は渾然とした調和した生き物として感じられて来るのであります。

谷口雅春

この「統一自覚の分裂」こそが、現代人の悩みの根源にあるものであり、弱さの原因だと思います。

戦後、アメリカによる洗脳で「個」の「自由」や「権利」の主張ばかりを教えられ、全体としての調和や一体感というもう片方の幸せや充実感を奪われた結果が、今の人の心がバラバラになってしまった社会。

人との心の繋がりが奪われてしまったら、群れの動物であり、縦の繋がりを意識する能力のある人間は、本当の意味での幸せを感じられなくなる。

その欠乏感は心に影を生み出し、行動や言葉にも迷いを生み、それが肉体の不調ややまいにも繋がっていくのだと思う。

本当の意味での自然に帰る事、人工的な社会とあえて心の距離を取り、動物的な感覚、また宗教的な感覚を取り戻す事こそが真の幸せへと繋がる道なのだと思います😃

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